なぜ「旅館の浴衣」は右前ではなく左前なのか？和装の基本とタブー

旅館や温泉で浴衣を着るとき、「右前と左前、どっちだっけ？」と迷ったことはありませんか。
実はこの“合わせ方”には、衣服の構造だけでなく日本の死生観や礼法の歴史が深く関わっています。
なぜ「左前」が正しいのか、そして「右前」がタブーとされる理由を見ていきましょう。

「右前」「左前」は“どちらの襟が上にくるか”

まず前提として、「右前」「左前」は自分から見た側で表します。
つまり、左前とは「自分の左側の襟が上にくる着方」、
右前とは「自分の右側の襟が上にくる着方」です。

和服では、左前（左の襟を上に重ねる）が基本。
浴衣も着物も、左前が正しい着方とされています。

左前が正しい理由：生活と構造の合理性

和服は、右手で作業をしやすいように設計されています。
左前にすると、右手を動かしたときに衣の合わせが開きにくく、
動きやすく、見た目も整うという実用的な利点があります。

また、左前では帯の下に懐（ふところ）を作ることができ、
小物を入れる際にも右手で自然に扱いやすくなっています。
このように、左前は単なる慣習ではなく、生活に即した合理的な形なのです。

右前は“死装束”の着方

一方の右前は、亡くなった人に着せるときの着方です。
古くから葬送の際には「この世」と「あの世」を左右反転の世界として捉える考えがあり、
死者の衣服は生者と逆の形に着せる風習が生まれました。

そのため、右前は死者のための着方＝逆さまの世界の装いとされ、
日常で右前にすることは「縁起が悪い」とされてきたのです。

実は“右前”という言葉が混乱を招く

混乱の原因は、「右前」という表現そのものにもあります。
日常会話では「前」と聞くと“手前側の布”を指すように思われますが、
和服では上に重ねる側の布を「前」と呼びます。

そのため、「右前」は「右側の布が上にくる」＝右の襟が外側という意味になります。
旅館などで「左前にしてください」と言われたら、
左の襟を上に重ねる＝右側の襟を内側にするのが正解です。

旅館で間違えやすい理由

浴衣は前をざっくり合わせるため、どちらが上かわかりにくいのが難点です。
特に鏡を見ると左右が反転して見えるため、自分では逆に感じやすいのです。
慣れないときは、「自分の右手で左の襟を上から押さえる」と覚えておくと確実です。

また、旅館によってはすでに帯を巻いた状態で用意されていることもあり、
最初から左前に合わせやすいよう設計されている場合もあります。

左右の文化は洋服とも逆

面白いことに、洋服（特にシャツ）は男女で前合わせの方向が逆です。
男性用は左前（右側が上）、女性用は右前（左側が上）となっています。
これは、かつて男性が武器を扱いやすくするため、女性が他人に着せてもらうためなど、
用途と文化の違いから生まれた構造差です。

和服では男女ともに左前で統一されており、
この点も“日本独自の合理性と死生観の一致”を反映しています。

まとめ：左前は“生活の知恵”であり“祈りの形”

浴衣や着物を左前に着る理由は、単なるマナーではありません。

• 右手で動きやすく、衣が乱れにくい実用的構造
• 懐を作れる合理的な設計
• 右前が死者の装いとされる文化的背景
• 「左右反転」の死生観に基づく伝統

つまり、左前は生活と信仰の両面から定着した合理的な型なのです。
旅館の浴衣もこの伝統を受け継ぐ形で作られており、
正しく着ることは、単に作法を守るだけでなく、
日本の装い文化そのものを尊重する行為といえるでしょう。